日本通信株式会社 新卒採用

インタビュー

日本通信はまだまだこんなもんじゃない。そう思っているからやめられない。

日本通信の歴史を語る上でこの男は外せない。日本通信のサービスを裏で支えてきた後藤である。

入社は2000年。日本通信が、法人向けのテレコム・サービスから、データ通信サービスへ中核事業の軸足を動かしたいと考えていた時期だ。前職のモトローラで三田(社長)が率いるチームに所属していた後藤は、モトローラで一仕事した後、三田に呼び寄せられた。

三田と後藤の出会いは、1989年。移動電話といえば肩に担ぐショルダーフォンしかない時代。無線機器のトップメーカーであった米モトローラは、初めてポケットに入る移動電話"マイクロタック"を発売し、世界を震撼させた。三田は、マイクロタックを日本に持ち込み、市場を梃入れするために日本にやってきたのだ。

「携帯電話はこれまでレンガのような大きさが限界と思われていました。マイクロタックの登場で、メーカーは競って小型化の開発に取り組むことになります。業界が変わった瞬間でした。」

業界に変化をもたらした経験は、後藤にとっても大きな衝撃であったという。

三田がモトローラを去った後も、後藤はモトローラにいた。当時モトローラの開発部隊は米国にあった。日本には、標準化活動に参加したり、通信事業者のリクワイアメントを確認したり、フィールドテストをしたりする部隊のみが置かれていたのだ。ところが日本のメーカーのキャッチアップは早く、次第に米国の製品サイクルでは日本のマーケットに追いつかなくなる。そこで、モトローラは日本にデザインセンターを設立する。それを手がけたのが後藤だった。

日本始動の携帯電話の発売に漕ぎ着け、センターが軌道に乗ってきたちょうどその頃、「日本通信はデータ通信にシフトする。面白いことが始まるぞ。」という三田の言葉を受けて後藤は日本通信に参画することになる。

「モバイル通信を法人に提供するという方向性はあったが、具体的な商品作りはまさにこれからの状態でした。まずは部署の名前を決めろと言われたので、「モバイルソリューション部」という部をつくりました。といっても、初めは私ひとりでした(笑)。やることも漠然としていたので、ビジネスのアイディアを具体化するというのが仕事でしたね。」

たったひとりから始まった部であったが、商品の具体化とともに人が増えていった。発売するサービスができると、プリセールス部隊をつくる。DDIポケット(現ウィルコム)と接続しPHSサービスを展開する頃には、システムとネットワークの開発部隊を立ち上げることになる。

その後、優秀なマネジメントメンバーも日本通信に参画し、後藤はようやく製品を企画・管理するプロダクタイゼーションに集中できるようになる。

「日本通信は、新しいモバイル通信サービスを生み出す会社です。どのプロダクトも自分にとっては思い入れのあるものばかりですが、中でもコンシューマ向け商品として最初に構築したプリペイド通信は格別です。当時三田さんは、通信も乾電池のように買い取りできる商品が必要であるとの発想から『通信電池』のコンセプトを打ち出しました。」

データ通信をプリペイドとしてリアルタイムに利用量を減算し、さらに使いきった後にリチャージできる電池のような仕組みを試行錯誤しながら商品化までこぎつけた。今でもb-mobileにおいてプリペイド商品群は根強い人気があり、他事業者が追従できない位置にある商品である。

「業界に変化をもたらしたモトローラでの経験が自分の原点です。『通信電池』は、変化のきっかけとなりましたが、市場への普及という意味ではまだまだ挑戦は続きます。」

後藤の次の目標は、もっと強いプロダクタイゼーションのチームをつくること。そして、強いチームで、強いプロダクトを生み出すことだ。

後藤に自身の目標は?と尋ねたら、「卒業だよ」と返す。

「現在の私の最大のミッションは、若手プロダクトマネージャーの育成です。ひとつのプロダクトを生み出すには、深い知識と幅広い経験が必要です。しかし、それらが多少不足していても、自身の努力と周りを巻き込む力で乗り越えることができます。若い人たちには、世の中にインパクトのある製品を一緒につくっていきたいという気持ちでチャレンジしていってほしいです。」

「鷲のようなすごいものを手に入れようとしているけれども、手に入れたものはまだ卵から孵ったばかりという気持ちです。しかし、日本通信はまだまだこんなもんじゃない。いくら入れてもいっぱいにならない器なのです。だから、まだまだ挑戦はやめられない。もうこれで十分というところまでいきたいと思います。」

後藤が卒業する頃には、後藤の育てた若手プロダクトマネージャーたちが、卵から孵った雛鷲を大きくしているにちがいない。


注:記載内容はすべて執筆当時のものです。